「・・・さま、クリスさま」
　はっと気付くと、ルイスが心配そうな顔でクリスを見つめていた。
「サロメ殿がいらしています。お通ししても大丈夫ですか？」
「あ、ああ」
　クリスが頷くと、ルイスは一瞬何か言いたげな顔をしたが、黙ってサロメを招き入れた。

「クリスさま、来月の叙勲式のことですが」
　言いかけて、サロメがちらりとルイスを見た。
「ルイス」
「はい、何かありましたら、お呼び下さい」
「すまないな」
　来月叙勲されて、正式に騎士となる者の中には、ルイスも含まれていた。自分が聞いては都合の悪いこともあるのだろうと、ルイスは察しよく退席した。

　扉が完全に閉じたのを見計らって、サロメが口を開いた。
「ところでクリスさま、そろそろルイスもお側付きから外した方がよろしいのでは。彼も来月には、正式な騎士になることですし」
「そうか、うっかりしていたな。あの子ももう、一人前か」
　クリスは、サロメがまだ何か言いたげな様子をしていることに気付いた。
「まだ何かあるのか。それとも他に気になることでも？」
「ルイスの件ですが、できれば一日も早くお考えいただけないでしょうか」
　クリスは、サロメの言いように何か厭なものを感じた。
「これは、正直申し上げにくいのですが、最近、騎士団の中で嫌な噂が流れておりまして」
「何だ」
　クリスの眉が不快げに上がった。騎士団長を務めるだけあり、女性にしては珍しく、クリスは噂話の類が嫌いだった。
「どうか、お怒りにならないで下さい。クリスさまが、若い騎士を愛人にしている、と」
「何だって、誰がそんなことを！」
　クリスは思わず声を荒げた。
「無論、根も葉もない噂であることは、我々はよく承知しています。
　クリスさまがルイスを目にかけていることは確かですが、だからといって特別扱いをしているわけではありません。ルイスも、それに狎れることなく、むしろ、勉学、剣技ともに努力し、見習い騎士の中では一目置かれる存在となっています。
　これは、おそらく誰かが故意に噂を流しているとしか思えません。
　もし、議会の手の者の仕業であるならば、一刻も早く手を打たねば、まずいことになるでしょう」
「ルイスをまだ子どもだと思って、側にいることを許していた私にも問題があったな」
　クリスは自嘲気味に笑うと、額に手を当てた。
　一瞬の怒りが引くと、クリスはむしろ情けないような気持ちになった。それは、自分に対するものと、周囲に対するもののどちらでもあった。
　自分は、女としてのハンデを克服するよう努力し、周囲もそれを認めてくれていると思っていた。
　なのに、こういう噂が流れ、問題になるくらい、自分が女であることや、外見に惑わされる者も多いのだろう。自分は、とうに女としての機能は失っているというのに。
「解った。お前のことだから、次の従者を誰にするかも考えているのだろう？」
「はい、何名か私の方で候補を選んであります。差し支えなければ、クリスさまがこの中からお決めください」
　そういうと、サロメは何枚かの書類を差し出した。
「私は誰でもかまわない。サロメ、お前に任せる」
「承知しました。ルイスには、どうしますか？」
「ルイスには私から話しておく。それでいいな」
　話を打ち切って、サロメが退出すると、疲労感に襲われて、クリスは椅子にもたれかかった。

◇

「クリスさま、どうかなさいましたか？」
「ルイス、お前には近々、私の従者の役目を別の者に引き継いでもらうことにした」
　そう告げたときのルイスの反応は、予想以上に激しかった。
「どうしてです！僕が、何かお気に障るようなことでもしましたか！？」
「そうではない、お前はとてもよく仕えてくれた」
「なら、どうしてですか」
　あくまでも食い下がろうとするルイスに、クリスは諭すように話しかけた。
「判っているだろう、来月でお前も晴れて正式な騎士となる。そうなれば、私の世話など焼いている暇はあるまい」
　クリスがそう答えると、ルイスはうつむいて黙り込んだ。
「ともかく、これでお前の父上との約束もようやく果たせる。これで私も一安心というものだ」
　沈黙を了承と受け取って、クリスは息を吐いた。



　ルイスは部屋を出ると、廊下を走り抜け、独りになれる場所を探して裏庭へと向かった。
　擦れ違う人々が何事かと振り返ったが、それを気にする余裕は、今のルイスにはなかった。
　いつか、従者の任を解かれることは、ルイスの頭に全くなかったわけではない。むしろ、この年齢になるまで、従者でいたことの方が不自然だった。
　クリスに呼ばれて、彼女の顔を見たとき、来るべき時が来たのだと判ったが、頭で承知していても、気持ちはすぐに納得できるものではなかった。
　吹き荒れる嵐のような感情のまま、ルイスは一人剣を振るった。

　腕が上がらなくなるくらいまで剣を振るった頃、ようやく心の波は少しずつ静かになりつつあった。
　荒く息を吐きながら、草の上に体を投げ出す。
「少しは落ち着いたか」
　唐突にかけられた声に、ルイスは飛び上がりかけた。
「パーシヴァル殿」
　今までの様子を見られていたことに気付いて、ルイスの声がとがった。
「クリスさまがお前を遠ざけた理由を、お前も知っておいた方がいいと思ってな」
　ルイスに険しい顔を向けられても、パーシヴァルは悪びれる様子もなく、言葉を続けた。
「お前には聞き苦しいことだろうが、心して聞け。
　クリスさまが、お前を愛人にしている、という噂が騎士団内で流れている」
「何ですか、それは！？」
　そんな噂が流れているのなら、任を解かれるのも無理はないだろう。しかし、自分の気持ちは、誰にも知られぬよう、そう努めてきたはずだったのに。
　ルイスの気持ちを見透かしたように、パーシヴァルが再び口を開いた。
「今回の件は、お前個人のせいではないだろう。おそらく、議会の工作ではないかと、サロメ殿は見ている。
　クリスさまはあの通りの方だから、お前を弟のように思って大事にしているだけで、お前の気持ちには気付いていないだろう。
　だが、お前のその様子では、噂を噂として否定するのを難しくしかねないからな。
　お前の気持ちに気付いている者は、まだ殆どいないはずだ。だからこそ、自重しろ。そうでなければ、クリスさまの身を危うくすることになる」
　パーシヴァルの口調は冷静で、ルイスはいっそ叱責された方がましだと思った。