風の流れるところ７

　荷物を取りにクリスが部屋に戻ると、明かりの消えた中に、一人の人影があった。
「俺だ」
　クリスは一瞬身構えたが、聞き覚えのある声に緊張を解いた。
「驚かせないでくれ。
　それにしても、ゲド殿まで抜け道を知っているとは、この城も物騒になったものだな」
　クリスは、流石に抜け道の対処を考えた方が良いかな、と思いつつ、くすりと笑って見せた。
「・・・ササライ殿から、ハルモニアできな臭い動きがあると忠告を受けて報せに来たのだが、少し遅かったようだな」
　対するゲドの声は固い。
「それで、お前はこれからどうするつもりだ」
「身を隠すためにも、とりあえずゼクセンからは離れようと思っています」
　クリスは簡単に事の経緯を説明した。騎士団長の重荷を下ろしたことは、寂しくもあったが、気持ちを決めてしまえば、いっそすっきりしたものだった。

「行くあてがないのなら、アルマ・キナンに行け。あの村なら、お前を歓迎するだろう」
「わかった、ありがとう」
　必要なことだけ言うと、ゲドは背を向けた。立ち去ろうとする背中に、クリスは声をかけた。
「ゲド殿、ひとつ聞きたい。炎の英雄だったショウは、紋章を外して、どれくらい生きられたんだ？」
「聞いてどうする。ヒューゴは紋章を外した。どれくらい生きられるかは、紋章の力をどれくらい使ったか、そして奴自身の生命力によっても変わるだろう。

　・・・いずれにせよ、そう長くはあるまい」
　クリスは、突き放したような言葉の裏に、ゲドにもヒューゴの命を惜しむ気持ちを感じた。
「炎の英雄は、皆同じ道を選ぶものなんだろうか・・・」
　ショウもヒューゴも、同じ心根を有するがゆえに、同じ紋章に選ばれ、同じ道を辿っていく。
「一度得た紋章を捨てるのは難しい。全てのしがらみを断ち切るのは、そう誰にでもできることではないだろう」
　ゲドの言葉には、ショウやヒューゴを羨む響きと、クリスを慰める響きがこもっていた。
「・・・あなたからヒューゴに伝えてくれないか。
　私にその力があるのなら、人を、この世界を守ってみようと」
　背を向けたまま、ゲドは頷くと姿を消した。

　

◇

　クリスは荷物を手にすると、ルイスの眠る部屋に足を向けた。
　ルイスは静かに眠っているようだった。息が安定しているのを確かめて、クリスがそっと部屋を立ち去ろうとしたとき、
「何故行ってしまうんですか」
　眠っていると思っていたルイスが、起き上がっていた。
「行かないで下さい、クリスさま」

　逃れる間もなく、クリスはルイスに抱きすくめられていた。
　自分より頭ひとつ分、ルイスの方が背が高いことに今更のように気づく。熱い吐息がクリスの首筋にかかった。
「わかってくれ、ルイス。私はもう、ここに居るわけにはいかない」
　いつまでも子どもだと思っていた。自分を慕うルイスの眼差しが、いつまでも少年のものでなかったことに、クリスはようやく気づいた。
　クリスが身を離そうとすると、ルイスの腕の力はいっそう強くなった。
「行かせません。どうして、あなたが汚名を被らなければならないんです」
　クリスはルイスの髪に顔を埋めた。ずっと抑えてきた気持ちが、堰を切ってあふれそうだった。どんなことをしても、この女がいなくなるのを止めたかった。
「ルイス、どうか聞いてくれ」
　クリスはあえて抗わず、変わらぬ静かな声でルイスに話しかけた。
「私はお前の気持ちにも、他の誰にも応えてやることはできない。
　真の紋章は、その強大な力ゆえに、その持ち主や周りの者を不幸にする」
「なら、どうして紋章を外さないんです」
「真の紋章を一度宿すと、外した後は長く生きることができない。私は、ゼクセンの再建や、グラスランドとの和平のためにも、自分の命を危険にさらすことはできなかった。
　私は紋章を外したヒューゴにあったが、あの様子ではあと一年保つかどうか・・・」
　ルイスの体がびくりと震えたが、それでも腕の強さは変わらなかった。
　クリスはなおも言葉を続けた。

「私は、紋章を宿してから、月の障りが絶えた。私の父、ワイアットは紋章を宿したあとでも子どもをつくることができたが、私にはそれができない。
　男と女で、体の違いもあるのだろうが、私はもう、人の理から外れてしまっているんだ」
　かつては、毎月訪れる月の障りは、クリスにとって煩わしいものでしかなかったが、いざ失われてみると、自分が自然の理から外れた存在であることを否応なしに思い知らされた。
　自分では割り切ったつもりになっていても、ふとした折りに、自分が世界の中で、ひどく心許ない存在になってしまったように感じることがある。

　ルイスは、クリスの言葉に言いようのない悲しみと痛みがあるのに気づいた。
　そして、クリスにここまで言わせてしまった自分を恥じた。

「ゼクセン騎士団長でない、一人のひととして、どれほどのことができるかわからないが、何かを守る力があるのなら、私は、もう少し生きてみようと思う」
　クリスがそう思えるようになったのは、ルイスを救うことができたからだった。
　
　今の自分では、この人を引き止めることはできない。そう悟ると、ルイスの腕から力が抜けた。
「・・・わかりました。でも、どうか約束して下さい。いつか、必ず帰ってくると。
　私は、きっとあなたの戻る場所を作って見せます。だから・・・」
「ありがとう」
クリスは、ルイスの体にそっと手を回した。ルイスの気持ちに応えることはできないが、家族のように愛していた。
　